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朝、高校時代の一番近しい友人が母になったと報せを受ける。「おめでとう」という言葉にクレヨンしんちゃんの絵文字までつけておいて内心はざわざわ、妊娠出産に対する呪詛が吹き出してくる惨めさ、醜さ。困る。

醜さに負けてなるものかと、作業をしたりゲームをしたりナポリを聞いて笑ったりして過ごす。トートバッグが出来上がった。何だか真っ直ぐ縫えなくなっているが憎悪する気持ちよりは可愛い欠点としておく。

最近ネトフリで『PLUTO』を観ている。「ロボットを生み出す際には人間を殺さないよう幾重ものセキュリティをかけなければならない」という世界設定らしいのだけど、新しい人間を生み出す際にそういう危険性を顧みる親がどれほどいるだろうかと不思議に思う。新しい人間が産まれればこの世のエネルギーの無造作な消費や搾取構造に間違いなく加担することになる、もしかしたら他人を傷害したり殺すかもしれない、そんなことを考えに考え葛藤の末にそれでも産むと決めたという人がもしいたら話を聞かせてほしい。

どういう技術かはともかく、『PLUTO』で人間そっくりのロボットを生み出すときと同じように、そうした危険性を遺伝子操作なりで事前に除去できるとしたら、それは倫理的に間違っているだろうか。